昨日は日本スペインギター協会のニューイヤーコンサートに出演させていただきました。コンサート後にもいろいろな方とお話をすることが出来、楽しかったです。皆さんとても上手なので、久しぶりにとてもいい刺激になりました。


では、ピーボディへの話にうつります。

講習会は、全日程で5日間。一人40分のレッスンを2回バルエコに受けることが出来ます。私はそのときは、ソルの20のエチュードから最後の1曲と、ウォルトンの5つのバガテルより、第1楽章を弾き、受講しました。

とても嬉しかったのは、私がその当時英語が話せなかったのを理解してくれ、通訳のために日本人の生徒に頼んでおいてくれたことでした。そのかたは初めてお会いしたにもかかわらず、とてもお世話になり、嬉しかったです。

講習会以外では、射撃に連れて行ってくれたのが思い出に残ってます。22口径の銃で撃ったときや、ライフルを構えたときは、たのしかったですね。ビギナーズラックというのがあるかどうかは分かりませんが、的の真ん中に何度も命中しました。

講習会の最終日にはバルエコの自宅でバーベキューです。家にテラスが付いていて、30-40人座って食べることが出来るんです。その下にはプールがあり、その先は見渡す限り庭。

その打ち上げバーベキューで学部長の教授を務める、レイ・チェスターにピーボディで勉強したいということを伝えると、今年から来てもいいぞという言葉をもらいました。ただそれは実現しませんでした。なぜなら、その講習会が行われたのが7月中旬。ピーボディ音楽院の入試は2月で、合格者発表は4月です。入学手続きは5月に行われるので、教授は学校に相談してくれたんですが、時期が遅すぎたということで、次の入学オーディションを受けることになりました。

昨日はボルチモア空港に着くまでを書きました。

アトランタで助けてくれた人は確か、スポーツメーカー・ミズノの方だったと記憶しています。


ボルチモア空港からボルチモア市街に行くには、何通りか方法があります。一番早いのはタクシー。チップも含めて、大体25ドルくらい。
しかし、アメリカで最初の乗り物は、電車と決めていました。

ボルチモアにはライトレールという、路面電車があります。それで、空港から市街まで行きました。しかし、乗客の雰囲気が怖い。結構治安の悪い地域を走るので、電車の中を警官が巡回しています。

私はレキシントンマーケットという駅で下車しました。ところが一駅手前で降りたのに気がつき、そこから歩いてピーボディまで向かいました。大体朝の10時くらいでしたが、結構怖かったのを覚えています。

20分ほど歩いて、ピーボディ音楽院に着きました。ここで、飛行機が欠航し、朝くることになった事に感謝しました。この学校は門が鉄格子で仕切られており、夜の間は入ることが出来なかったのです。もし、昨日何事もなく飛行機が飛んでいたら、、、、。

この怖いところで、何をしたら良いのか分からなくなっていたでしょう。その当時のボルチモアはかなり治安が悪かったらしく、1999年時点で、ボルチモア市のみでの殺人件数が、年間600件を超えていたんです。1日に約2人の殺人事件が起きていた計算です。

改めて、飛行機が欠航したこと。空港で日本人に助けられたことに感謝しました。



学校では、寮に滞在することになり、講習会の開会式とオリエンテーションが行われました。

初めて会う、バルエコにドキドキしながら、挨拶したときは感無量でした。

講習会の内容はまた、明日にします。

留学はアメリカに行きましたが、特にアメリカが良いからというわけで行ったわけではなかったんです。

学生のとき、尾尻雅弘氏に習っていたこともあり、バルエコの演奏が好きになりました。そして、同じ門下の方に、「今度バルエコの講習会があるね」ということを聞き、調べたらアメリカだったのでした。迷わず、そこで申し込みすることを即決。

これは、ピーボディ音楽院で一年に一度行われている講習会なんです(現在はもう行われていません)

審査のためのテープを送り、後日電話で連絡がありました。ところが、、、

何を言ってるか全然わからないー!!

そうです。英語が話せないのを忘れてました。まったく何を言っているか分からないうちに、切られていました。それから、15分くらい経ったでしょうか。尾尻先生から電話があり、「今そっちに電話したけど、通じないからこっちにかけたって」

助かったー。結局、内容はいつ渡米してくるかということだったと記憶してます。私にとって、外国が初めてのことなので、空港まで迎えに行こうか?といったようなことでした。

冒険をしてみたかったので、もちろん一人で目的地までいくことにしました。

すべてが初めてのことで、恐いもの知らずでしたね。

まず、経由地のアトランタで事件が・・・・

アトランタでボルチモア行きの飛行機に乗るために、ゲートまで行きましたが、搭乗時間が過ぎ、離陸時間になっても、機内に入れません。その当時私は英語が分からなかったので、何が起きているかまったく分かりませんでした。

しばらくすると、搭乗を待っていた人たちが去っていくではありませんか。さすがに「これはまずい」と思い、日本人を探しました。

しかし、アトランタからボルチモアに行く日本人なんているはずがありません。よほどの旅行マニアか、根っからのオリオールズファンくらいのものでしょう。
しばらくあたりを見回していると、一人いすに座っているアジア人を発見しました。でも、英字新聞を読んでます。これは、アジア系アメリカ人かなと思いながら、下手な英語で「Are you Japanese?」と聞きました。すると変な顔をしながら、「yes」と言ったのです。

ホットして、何で搭乗が始まらないのか不安で、ということを話すと、ボルチモアのあたりで嵐が起こっているから、離陸はキャンセルになったということでした。そして、

カウンターで話をしてくれ、ホテルを空港に手配するようにしてくれたんです。実はその人も出張でボルチモアに行くということでした。そのホテルがなんと「ヒルトンホテル」。

ラッキーと思いながら、ホテルに向かいました。

翌日その方と、空港に向かい、ボルチモア行きのゲートで待っているとき。
私がトイレに行って、戻ってくるとその人がいません。今まで頼ってきた人が急にいなくなると、凄く不安になりました。しかし、すぐにその人は戻ってきて、
「はい朝食。」

もう感動で、ろくに言葉が出ませんでした。

そんな感じで、飛行機にのり、ボルチモアに着くと、私は何かお礼をしなければ、と思い、、しかしそんなお礼にするようなものも持っていなかったので、朝食代とお礼をかねてお金を渡そうとしたら、

「お金はいらないよ。御礼をするなら、君が英語が話せるようになったときに、英語で困ってる人を見つけたら助けてあげて。それが僕に対するお礼だよ」と言ってくれました。さらに、

「僕も英語が駄目なときに、同じようにして助けてもらったことがあるからね。ボルチモアで困ったことがあったら、いつでも連絡してきて。ここに3-4日ならいるから」と言いながら、ボルチモアでの滞在先のホテルの電話番号と名前を教えてくれました。

もう、このときの嬉しさは一生忘れないと思います。今でもあのときの光景が脳裏に焼きついて離れません。

ここで、私の人生観が変わったように自分では思えます。日本人もまだまだ捨てたもんじゃない。自分もこういう人になりたいと思いました。

続きは、明日。
まだまだいろいろと起こります。

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