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予科練平和記念館に行ってきました。

比較的近くにあるのですが、行くのは初めてでした。
現在、予科練平和記念館では、特別展として「予科練に志願した昭和の少年たち」というイベントをおこなっています。

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入館料を払うと、チケットとして下の様なカードを貰います。

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予科練とは、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称だそうです。
第2次世界大戦終結までの海軍の航空隊に属する組織ということですね。

飛行機の搭乗員の養成は、14歳半から17歳までの全国の者から選抜試験を行って訓練をしていったそうです。
これは、表向きには志願という形だったそうですが、展示物を見ると、試験のための呼び出し状などもあったので、志願も召集もどちらもあったということなのでしょうか。

志願した人の動機が紹介してありましたが・・・

・ただ純粋に飛行機乗りになりたかったから
・家計が苦しかったから収入の足しにするため

など、いろいろな事情があったようです。
もちろん、当時のことですから、「お国のため」といって志願した人もいるのでしょう。

そんな彼らは、戦争末期には、特別攻撃隊に配属されたりしていきました。特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」に配属になると運命がそこで決定されます。

展示の中に、予科練生が家族に充てた手紙が紹介されていました。予科練に入学したころから出撃した後までの数々の手紙です。
その人は入学したのが15歳の時。

入学当初は、「予科練がつまらない」「なじめない」「映画なども見て遊びたい」といったような状況と心境が連ねてありますが、次第に軍人らしい物言いになっていきます。

最後の手紙は、オランダ領インドシナに向けて発った後、移動中の船で書いた手紙でした。
彼が19歳のときです。
そして、インドシナで戦死。

予科練生の頃から最後の手紙まで幾度となく書いてあったのは、家族を気遣う内容ばかりでした。


前に特攻隊の遺書もいくつも読んだことがありますが、どれも家族を気遣う内容ばかりで、また気遣うだけでなく一見、とても明るく書いているのです。
とにかく周りに心配を掛けたくないというような気遣いが見えるので、とても胸が苦しくなります。
人は、本当に苦しいときは、周りに迷惑や心配を掛けたくないと思うから、その心境とは逆行して明るくふるまうのでしょう。なんだか、とてもよく分かる気がします。


私が小さいころ、祖父の家に遊びにいったとき、祖父の友人がよく遊びに来ていました。
彼は、元「特攻隊員」でした。

出撃まであと2日というところで、終戦になった経緯があり、特攻隊の出撃前の様子を話してくれたことがありました。
出撃の約1週間前から出撃までは、食べたいものは何でも食べることが出来るという、至れり尽くせりの待遇を受けるそうです。

最近は、憲法改正だなんだと話題がにぎわっています。
今日、予科練平和記念館に行ってから、改めて第9条の条文を読んでみましたが・・・。

戦争を放棄するということがどういうことなのか。
考えただけでも恐ろしいことではないでしょうか。
条文には、放棄の意味としてなにも触れていません。他国に攻め込まれたときのことも触れず、ただ戦争を永久に放棄する」と記載されているだけです。

毅然とした態度を取ることが出来る国になって欲しいです。

このように思うようになったのには理由があります。

在米中、米国で同時多発テロが発生しました。
その後、イラク戦争がはじまりましたが、日本からは自衛隊が支援として出動しました。
あの隊長と隊員たちが出発するところが、アメリカのニュースでも放送されていました。私はそのニュースをアメリカのバーでカウンターに座りながら見ていました。
出動したのが良いのか悪いのかは置いておいて・・・私が純粋に感じた気持ち・・。

「無事に帰ってきてほしい」

後方支援とは言え、派遣が良いかどうかは政府が決めることですが、なぜか、自分の家族のように、「行かないでほしい」「無事に帰ってきてほしい」という感情が沸き起こりました。

戦争は絶対にいけない。
だけど、他国から領土を侵害される場合を想定して、自力で守るだけの力と法の整備はしておいてほしいと思います。

多くの若者が予科練に志願して、そして散った。
それだけでなく、多大な犠牲のうえに昭和から平成の今があるということを私たちは忘れてはいけないと思った一日でした。

2日目(2月10日)は、名古屋市内を中心に観光しました。


名古屋城は徳川氏によって築城された城です。

信長の時代は那古屋城と言っていましたが、天守があったところには現在は石碑が建っています。

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敷地内では御殿の復元建設工事が行われていました。
戦災で焼失してしまいましたが、資料がいくつも残っていて復元が可能だということでした。工事中ですので、ヘルメットをかぶっての見学になりました。

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天守閣も戦災で焼失してしまったようですが石垣やそのほかの櫓は残っていました。
石垣の石をよく見ていくと刻印が刻まれているのがいくつもあります。

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多くの大名が築城に関わったから、自分の家が築城に従事したという証拠を残したかったのかもしれません。
名古屋城は国宝指定第1号です。

その天守閣は巨大でとてもカッコいいです。

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これも復元なのですが、展示している写真で驚くようなものがありました。

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空襲で炎上している時の写真です。
本丸の大きさはとても大きいのですが、その大きさからみると、炎は巨大なものだということが分かります。アメリカはとんでもないことをしてくれたものです。

・・・・・

本丸(天守閣)から正門に戻ると、いました!
ゆるキャラが。

ハチ丸くんというキャラクターです。

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ツーショットで撮ってもらいました。


名古屋城の後は、万松寺に行きました。
信長の父・信秀が亡くなった時に葬儀が行われた寺です。当時はかなり多くの僧が葬儀に出席したようですから、大きな寺院かと思っていましたが、いくら歩いても見つからないのです。

地図を見ながら行ったり来たりして、ようやく見つけました。
しかし、商店街の一角にひっそりとあるので、一度前を通ったのに気が付きませんでした。普通に歩いているとまったく気が付かないほどです。

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提灯が下がっている通路を抜けると墓所があります。織田信秀公です。
清州から移したものですが、とても歴史を感じ取ることが出来ました。

この万松寺近辺は商店街が連なっています。大須観音もありましたが、そのすぐ近くにから揚げ店が。

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1ピースがとても大きく、揚げたてでとても美味しかったです。


最後は、政秀寺。

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信長の幼少時、守役だった平手政秀を弔うために建立された寺です。

テーマを作って観光すると、時代背景なども想像しながら歩くことが出来ます。さまざまなことを考えながら見ていると、晩年は狂気とも思えることもしますが、桶狭間の戦い前後までは少なくとも信長がうつけだったとは到底思えません。

また、何かテーマを見つけてどこか旅がしたいですね。

帰りの新幹線では、往路と同様に富士山がとてもきれいに見えていました。

2月9日と今日にかけて名古屋に行ってきました。
私は戦国武将では織田信長にとても興味がありますが、せっかくなのでテーマを織田信長にして史跡を巡りました。

天気予報によると天気が少し心配されましたが、雪の予報が出ていた名古屋でもまったく降らず、むしろ晴天に恵まれました。
新幹線からは富士山もとてもきれいに眺めることが出来ました。

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まず、最初に向かったのは清州城。織田信長の活躍はここから始まったと言っても良いでしょう。

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信長時代は清州が都市としても名古屋以上の栄華を誇っていたようですが、徳川氏によって名古屋城が新しく築かれて都市の中枢機能が清州から移されると、城も廃城され、街も活気を失っていったそうです。
ですから、今回見た城はもちろん復元の城ということになります。

しかし、城内の庭園はとてもきれいでした。

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本来天守があったと推定されるところには、信長の石碑がありました。


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清州城の次は、名古屋市に戻り熱田神宮へ。
今回の旅で、私にとってメインと位置付けているところ。


1560年に桶狭間の合戦がありましたが、信長が敦盛を舞った後、城を飛び出した時はわずか5-6騎しか後に続かなかった。それも、信長は自らの作戦を口にしなかったからだとされています。
おそらく、必ず勝たなければいけない戦いで安易に口にしてしまうと敵に情報が漏れてしまうことを恐れたのかもしれませんね。

最近の研究では、桶狭間の戦いは奇襲ではなく、強襲であったという説が強いようですが。

籠城を勧める家臣がいるなか、援軍の期待も持てなかった信長は、自身の作戦を誰にも語らず電光石火のように城を飛び出したということでしょう。
大将が飛び出せば、部下は従わないわけにはいかないということも作戦の内だったのかもしれません。2万5000とも4万ともいわれる今川軍を迎え撃つには、2000あるいは4000と言われた織田軍であれば普通ならば怖気づくことも考えられるわけですが、実際に義元を撃ち破ったことを考えれば兵の忠誠度は高かったのかなと思えますね。

わずか数騎で清州をでた信長は熱田神宮に寄ります。
そこに、続々と兵士たちが集まったというわけです。
ここで、信長は戦勝祈願をしました。

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このあと、見事に信長は義元に勝つことが出来たのですね。

戦いでは大勝したので、戦勝祈願のお礼に塀を立てたというのですが、信長塀という名で残っています。

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参道沿いには、大楠の木がありました。
樹齢は1000年以上で、弘法大師のお手植えとも言われているそうです。

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それから、名古屋で最古の石橋というのもありました。二十五丁橋というそうで、25枚の石でできているそうです。この橋では西行法師が休息したということも書いてありました。

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熱田神宮は広大な敷地でした。
2日間ともに2万歩以上歩きましたので足が結構疲れましたが、とても楽しい史跡めぐりです。


熱田神宮の後は、名鉄で中京競馬場前で下車。
駅から徒歩2分ほどのところに桶狭間古戦場跡があります。小さな公園のようになっています。

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古戦場は一か所だけではなく他にも跡地がありますが、私が行ったところには義元の墓所があり、そのすぐ近くには7つの小さな石碑があり数字が付けられています。
1が義元が討たれた地点。2から7までは家臣が討たれた地点で、公園のような敷地の中に点在していて妙にリアルな感じがしました。

桶狭間の戦いは、2000対2万5000とも言われていますが、実際には、義元の本体は5000程だったのではないかと様々な書籍で紹介されています。ほかの部隊は各地で転戦しているわけですからその通りなんだろうなと思います。

義元は駿府(静岡県)から日数をかけて遠征しています。
そのため5000と言ってもその大半は荷駄隊だったと言われています。要するに戦闘部隊ではなく補給部隊ですね。
そして、信長は短時間で決着をつけるための出陣で、すべての兵が実戦部隊だったと書かれているのを見たことがあります。

そうすると、数では義元が上回っていますが実質はほとんど互角の状態だったのではないかと思えますね。
資料によっては、山を駆け下りて義元の本陣に襲い掛かったのではなく、義元は桶狭間の山の上に陣を敷いており、信長軍は攻めのぼったという分析もされているようです。兵の能力から考えると十分に義元に勝つことが出来たのでしょう。
実際の話、一国一城の大名が陣を敷く地を考えるのは当たり前の事です。また、不意を突かれてもろくも負けたのではなく、かなりの激戦だったということも窺えます。古戦場跡が一か所ではないのは、義元が退却をしながら戦い続けたからだそうです。
両軍がぶつかった場所と義元が戦死した場所は違うようですし、信長方も多くの家臣を失っていますから、義元軍が油断していたとはあまり思えないのです。
当時の地形は、海岸線も現在よりも内陸にあり入り組んでいて、若いころから野山を走り回っていた信長は、義元の動きや場所が頭の中でち密に計算して捉えていたのではないでしょうか。
その分析のために一番役に立った情報をもたらした梁田氏が第1功労者となっていることからも言える気がします。
まさに、情報戦ですね。

そんなことを考えるととても興味深いです。

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古戦場跡地から道を挟んで向かいには、光徳院というお寺があり、そこは義元公の本陣跡という碑がありました。

それにしても、清州城から熱田神宮までは電車で数駅ですし、さらに桶狭間まではさらに数駅です。
この距離をよく短時間で移動したのだと思うと、気が遠くなる思いです。

騎馬武者は良いけど、足軽は大変だったろうなぁ・・。
のんびり歩くだけでも疲れましたからね。 ^^


夜は、名古屋駅近くで、味噌かつ定食でした!

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本郷の湯島天満宮に行きました。

御徒町から歩くと15分程度です。

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昨年のお守りがあったので古札として納めました。

そして、お詣り。


湯島天満宮は菅原道真公が祭られています。
道真公といえば学問の神様ですね。

多くの学生が絵馬に合格祈願をしていました。


菅原道真は学問の神としてがとても有名ですが、そのほかにも大事なことでご利益があるとも言われていることがあるそうです。
それは、「虚偽」から救うということ。

道真公は、藤原時平に左遷されたということがあったそうですが、その左遷の祟りとして災害などが発生したと伝えられています。
なぜ、その災害等が道真の祟りとして恐れられたのかというと、左遷は時平による悪意によって悪者に仕立て上げられたということが原因のようです。

私は、その辺の歴史にはあまり詳しくありませんのでよくわかりませんがとても興味深い話だと思います。

したがって、道真は「虚偽」から救うという力(ご利益)もあるということを知りました。


お詣りしたあとは、、、おみくじ。

ここいくつか寺社に行きましたが、どこでもおみくじを引く気にはなりませんでした。湯島天満宮でも引くつもりはなかったのですが、あるおみくじ箱の前で、躊躇なく「ここで引いてみよう」と思い迷わず・・。


内容は。
^^

その通りになればよい年になるかも。

26日に大阪でコンサートがあり、そのリハーサルを行いました。

京都の河原町駅で待ち合わせをして、駐車場に向かいましたが、その間に2箇所僕の歴史で大好きな人物のゆかりの場所があったので、パシャリ。

迎えに来てくれた方は、秋葉原教室で隣のレッスン部屋でレッスンしていた方なんですが、まえに少し話をしていたのを覚えていたらしく、

「角さん、歴史すきだったよね。駐車場までいくのに、二ついいところあるけど見ていく??」と言われ、「はい」と即答。



まず一つ目は、河原町駅からさほど遠くないところにある「近江屋跡」
近江屋は幕末時、坂本龍馬が襲撃されたところですね。

現在は石碑しか建っていなくて、跡地には「サークルK」というコンビニがありました。

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ひょっとしたら写真がやたらと小さくて見にくいかも知れません、、。


2箇所目は、、、、なんと「本能寺」!!

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正直ここで、信長のまつわりのある場所に出くわすとは思ってもみませんでした。
来る時に途中で、静岡の西山本門寺に寄ろうと思ってたのですが、首都高が混んでて辞めたんです。その西山本門寺には信長の首塚があるところです。

首塚はまた機会があるときに^^。


あと少しで本番。

頑張ります!

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