京都の寺社巡り2日目は、朝から歩きました。
久しぶりに三十三間堂に行ってみたかったので朝から行くことにしました。宿からおよそ2キロくらいの距離でしたが、徒歩で出発。
久しぶりに三十三間堂に行ってみたかったので朝から行くことにしました。宿からおよそ2キロくらいの距離でしたが、徒歩で出発。
開場の9時よりも早く着きましたが、チケット売り場は行列でした。これでは15分から20分はロスしてしまうと予測して、すぐそばにあるもう一つの興味がある場所に向かいました。

これは養源院というところ。
ガイドブックでは、俵屋宗達の杉戸絵があると紹介されていたので、興味があって行ってみました。それだけの情報で訪ねたのですが、ここはとても興味深い場所でした。
ガイドブックでは、俵屋宗達の杉戸絵があると紹介されていたので、興味があって行ってみました。それだけの情報で訪ねたのですが、ここはとても興味深い場所でした。
建物に入り正面に宗達の絵があります。
これに見入っていると、受け付けのおばちゃんが、「案内しますからこちらに来て下さい」と私を誘導していきます。
これに見入っていると、受け付けのおばちゃんが、「案内しますからこちらに来て下さい」と私を誘導していきます。
開場と同時に入ったので、拝観しているのは私のみ。
色々な説明をゆっくりとしてもらったのですが、ここには徳川家の菩提寺となっていて、徳川家歴代の将軍と浅井長政、お江の位牌がありました。位牌が収められている部屋に入ると宗達の金襖絵が両側にあります。圧倒的です。
そして、正面の向かって左側に3名の位牌がありました。左から浅井長政、徳川秀忠、お江の位牌です。私としては、驚きの連続でしたが、説明のなかにその3名の各位牌には、皇室の御紋、徳川家、豊臣家の家紋が入っているとのことでした。位牌にはそのとおりに家紋が刻まれています。
なぜ、その3種類の家紋が同じ位牌に入っているのか・・・。
特に、徳川家と豊臣家は敵対した勢力です。
普通では考えられないことのはずですが、秀忠とお江、それから長政の関係からこれは納得。
では、なぜ、皇室の御紋があるのか。
これは、秀忠の五女が皇室に嫁いでおり、五女がこれらの位牌を作ったからだそうです。
なぜ、その3種類の家紋が同じ位牌に入っているのか・・・。
特に、徳川家と豊臣家は敵対した勢力です。
普通では考えられないことのはずですが、秀忠とお江、それから長政の関係からこれは納得。
では、なぜ、皇室の御紋があるのか。
これは、秀忠の五女が皇室に嫁いでおり、五女がこれらの位牌を作ったからだそうです。
普段はなかなかそれらが見えないのだそうで、「貴重なものはなかなか見えないものなのです」と紹介するそうです。しかし、珍しく陽の光がよく入り,タイミングよくはっきりと確認をすることが出来ました。
そしてお堂を囲む廊下は「血天井」と呼ばれる特別な廊下でした。
ここの天井の板は、伏見城の廊下に使われてた板で、伏見城が落城した後に自害した武士たちを供養する意味で入れられました。
ここの天井の板は、伏見城の廊下に使われてた板で、伏見城が落城した後に自害した武士たちを供養する意味で入れられました。
当時は、東軍の鳥居元忠が1800程の兵と共に伏見城で西軍を迎え撃ちました。宇喜多秀家と小早川秀秋をはじめとする軍勢を前に奮戦しますが、鳥居元忠は最後に家来と共に自害します。その自害した際の血のりが廊下の板に染み込み残ったというものです。鳥居元忠本人の跡も教えてもらいました。
顔から顎の輪郭、胴から腕や脚がはっきりと分かるものでした。自害した時の刀の角度まで痕にのこっています。これらの板はきれいに洗ったのだそうですが、伏見城落城の場合は、自害してからしばらく遺骸が放置されたままだったため、血が板深くまで染み込み、くっきりと痕に残ったということでした。この他にも家来たちの手や足の痕など沢山見ることが出来ました。
顔から顎の輪郭、胴から腕や脚がはっきりと分かるものでした。自害した時の刀の角度まで痕にのこっています。これらの板はきれいに洗ったのだそうですが、伏見城落城の場合は、自害してからしばらく遺骸が放置されたままだったため、血が板深くまで染み込み、くっきりと痕に残ったということでした。この他にも家来たちの手や足の痕など沢山見ることが出来ました。
俵屋宗達の絵を見に来るつもりで入った養源院でしたが、様々な歴史のリアルな痕跡を見て衝撃に近いものを感じました。
養源院のあとは三十三間堂。

ここは、中学の修学旅行で訪れて以来です。
とても不思議な空間です。
とても不思議な空間です。
それから、豊国神社から方広寺に行きました。
方広寺はもともと広大な敷地からなっていて、三十三間堂までも取り込んでいたそうです。現在は梵鐘が有名なものとして残っています。
方広寺はもともと広大な敷地からなっていて、三十三間堂までも取り込んでいたそうです。現在は梵鐘が有名なものとして残っています。

結構大きな梵鐘ですが、これを見に来た目的は大きさや形ではありません。
見に来たのは梵鐘にかかれている文字です。
見に来たのは梵鐘にかかれている文字です。
徳川家康が豊臣氏征伐を行うきっかけになったという梵鐘。
「君臣豊楽」
「国家安康」
「国家安康」
という有名な文字ですね。
これがきっかけで大阪の陣が始まりました。
これがきっかけで大阪の陣が始まりました。

実際に見てみると、沢山の語が書かれている中のごく一部がこれなんですね。
どうみても、家康のあてつけにしか見えません。
それほどまでに豊臣家を抑え込んで安定したいということだったのでしょう。
どうみても、家康のあてつけにしか見えません。
それほどまでに豊臣家を抑え込んで安定したいということだったのでしょう。
歴史の一コマを、目の当たりにすることが出来るような不思議な感覚にさせられます。
京都は、まだまだ見どころが沢山です。何度来ても良いところですね。
京都は、まだまだ見どころが沢山です。何度来ても良いところですね。