上田方面を訪れると、毎回行くのが蕎麦屋。

友人に連れて行ってもらってからやみつきです。

今回も20日の昼に一人で行ってみました。

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草笛というお店です。
毎回そうなのですが、今回も満員状態。

順番待ちのリストに名前を書き込んで待っていますが、一人だと後回しにされがちです。
2人や3人など複数で来店している人が先にテーブルに案内されていきます。

しばらく待っていると、要約呼ばれました。順番も自分を何番も飛ばされていました。
ウェイトレスに「合席になっても良いですか?」と聞かれたので、断る理由はないから承諾。

昼食が済んだら演奏会場のアランフェスに向かうこともあり、気持ちは蕎麦半分、演奏のこと半分という具合に近い状態でしたので、合席になっても全く気になりませんでした。
仮に、合席になったとしても食べたらすぐに楽譜の確認をしたかったので、すぐに席を立つつもりでした。

私が先に席について、少しすると・・・
老人が私のテーブルの方に向かってゆっくりと歩いてきました。

そう、合席になった方は年配の方。

注文はほぼ同時にしました。
向かい合って座っている位置関係なので、黙っているのもなんとなく変な感じがします。

老人は杖をついて一人で来店してきたので、質問をしました。
「この辺にお住まいなのですか?」

すると、すぐ裏に住んでいるとおっしゃいました。
私にも居所を聞かれたので答えると、細かい話の流れは覚えていませんが、私の事を「孫みたいだ」というような内容から、どういうわけか、戦時中の話となりました。

金沢に3か月滞在して、大砲の部隊に配属され監視役として兵役に就いていたこと。高崎に再入隊したのが8月15日で再入隊したその日に終戦を迎えたことなどを懐かしそうに話していました。

私の祖父が、衛生兵として台湾にいたことや、祖父の友人は特攻隊員だったが、飛び立つ2日前に終戦を迎えたので特攻をしなくて済んだ話などをすると、その老人の友人にも特攻隊員がいたことを話してくれました。

その方は、特攻当日、自身の乗る飛行機が故障で離陸できなかったため死ななくて済んだそうです。
まるで、映画「永遠のゼロ」の話のようでした。映画の終盤では、「このような話が日本中にあった」というシーンがありましたが、まさにその通りなのだと思って聞きました。

私は中学の頃に帰省した時に、祖父の友人から、「特攻隊員になると、飛び立つ1週間前から出陣までは、何でも食べたりできるというように待遇が破格に良くなる」と聞いた記憶があります。
そのことを訊ねると、それは本当だったと教えてくれました。


話を聞くと、その老人は93才。
今年は戦後70年ですから、終戦時で23歳だったということになります。

その方の話では、「戦争はやってはいけないという事は、自分たちは身を以て経験しているからダメだということが実感で分かっている。でも戦争を知らない人は、頭では分かっていても実感はないだろう」と言っていました。

その通りだと思います。。。

手元にギターがあったので、アメリカに滞在していたことも話しました。
すると、アメリカでは日本と闘ったことをどのように思っているのかを私に聞いてきました。

私は在米中に、同じような事をアメリカ人からも聴かれたことがあります。
アメリカでは、政治的な事や歴史の事を思いのほか、話すことがあります。学生同士でもよく議論しているのを目にしました。そんな議論の輪に入っていると、「日本人としてはどう思うか?」と聞かれたりしていたものです。

私は、面と向かっている老人に真珠湾のことを話しました。
「アメリカ人は真珠湾攻撃のことは今でも良い印象を持っていません。」

実際に戦争を体験した方に対してどのように話すか少し迷いましたが、素直にそのまま話すことにしました。
すると、その老人・・・・

「やはりそうだろうね。」
「お互いに良い印象がないのは同じなんだろうね。」

と言われました。

当時、高崎駅の駅舎には、機銃掃射で打たれた玉の跡がたくさんあったことや、B29から落とされた爆弾が真下ではなくものすごい勢いで飛行機と同じように向かって飛んできて、近くに落ちたときに同僚が亡くなったことなど、「それは修羅場だったよ」と穏やかな表情で話していた姿が印象的でした。

しばらく前までは戦争の話をする気にはならなかったそうです。
しかし、自分の年が老いてきたので、最近は話すようになったと言っているのを見ると、伝えることは大切なのだなと強く感じました。

席を立つとき、貴重な話を聞かせて頂いたお礼を言うと・・・逆に、

「楽しい時間でした。ありがとう。」

と言葉をかけてくれました。

普段出来ないような話を聞くことが出来る・・・貴重な昼食の時間になりました。