2001年9月11日、米国で同時多発テロが発生しました。
あの日から20年。
あっという間だなと感じます。
米軍がアフガニスタンから8月31日に撤退を完了したというニュースが出ましたが、私たちはテロの発生後、わずか1ヶ月程度で戦争が始まっていったのをアメリカ国内で見ながらその雰囲気も嫌だなという感覚を覚えていました。
当時は私はまだ音楽院の学生でボリチモア在住。あの日、2001年9月11日の午前9時(米国時間)になる前くらいだったと覚えていますが、日本の両親から電話がありました。その電話で起こされた私は母から「テレビつけてみて!!大変だから!!」と言われ、なんだなんだ?と思いながらテレビをつけました。
そうしたところ、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)が炎上していて、これは大変だと思いながら視聴し続けていたところ、2機目の飛行機がもう一本のビルに突っ込んでいきました。あの映像はなんだか映画の一場面の様で、え?え?という印象でした。それが現実にライブ映像で起きていると言うことも認識するまで少し時間がかかったような記憶があります。
その日の授業は2時限目か3時限目くらいからでしたが、学校そのものが休校になりました。
ニューヨークだけでなく、車で1時間ちょっとのワシントンDCでも国防総省(ペンタゴン)にも飛行機が突入していて多発的だということで、その日は全米に飛行禁止がされて史上初の米国上空に飛行機が1機も飛んでいないという状況になりました。
ボルチモアにもインナーハーバーに世界貿易センタービルがあり、狙われる可能性もあるということで市内には外出禁止令が敷かれました。
私はマウントバーノンという地区で音楽院から2ブロック程度の所に住んでいたので、学校の様子も気になり昼前だったと思いますが学校に向かいました。
外出禁止令が出されているので、車も人も全くいません。走っているのはパトカーだけ。
必要で外出しても大丈夫かどうか不安でしたが、2ブロック先の学校に行ってみるとやはり閑散としていました。学生寮に挟まれたカフェテリア(学生食堂)に行ってみると、学生たちがテレビの周りに集まり鈴なりの様な状態。ニューヨークやペンタゴンの様子が映し出されていて、テレビを見ている学生の中には、WTCに従兄弟がいるとか、友人がいるとのことで泣いている人も数人いました。
その頃はアウローラギターカルテットというグループで演奏も始めていましたが、メンバーの友人でペンタゴンに勤めている人がおり、出勤してまずコーヒーを飲みに席を外したそうですが、その数分後にその人のオフィスがある辺りに突入されたので九死に一生を得たというエピソードもあります。
ブッシュ大統領はそのテロ事件から大体1ヶ月程度でアフガニスタンに米軍を送ったと記憶しています。
あっという間に戦争に突入していったのですが、アメリカ国内全てが報復せよという勢いで一杯になり、人種関係無しに一致団結して戦争へと猛突進していきました。
いつも通っている日本食レストランに行っていたときに、軍服を着た白人女性が入ってきて食事をしていましたが、一緒に話をしていると「翌週からアフガンに行く」という話で、周りにいた皆で健闘を祈って一緒に酒を飲んでいた記憶もあります。
ひょっとしたらパールハーバーの時もこんな感じだったのかなと想像もしてしまったこともあります。
戦争は良くないに決まっていますが、いざ、何かが起きて戦いになるときの雰囲気の変わり方、勢いの雰囲気というものを現実の世界で見せられました。
翌年に、幸運な事に意志を共にするメンバーが集まり、WTCに救助のためにビルに入っていった数百人の消防隊員のご遺族のためにチャリティコンサートをさせて頂いたこともありますが、事前打ち合わせの際には、自分も瓦礫がまだ山の状態の現場を見にいきました。
地下鉄数駅が閉鎖になったままで、いかに被害が大きかったのかも垣間見られました。
ここまで当時のことを細かく書くことはあまりしないのですが、20年という年月で同時多発テロの事をあまり知らない人も増えてくると思いますし、アフガニスタンのあの米軍撤退とも繋がっている事なので当時の事を振り返ってみました。
あの日から20年。
あっという間だなと感じます。
米軍がアフガニスタンから8月31日に撤退を完了したというニュースが出ましたが、私たちはテロの発生後、わずか1ヶ月程度で戦争が始まっていったのをアメリカ国内で見ながらその雰囲気も嫌だなという感覚を覚えていました。
当時は私はまだ音楽院の学生でボリチモア在住。あの日、2001年9月11日の午前9時(米国時間)になる前くらいだったと覚えていますが、日本の両親から電話がありました。その電話で起こされた私は母から「テレビつけてみて!!大変だから!!」と言われ、なんだなんだ?と思いながらテレビをつけました。
そうしたところ、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)が炎上していて、これは大変だと思いながら視聴し続けていたところ、2機目の飛行機がもう一本のビルに突っ込んでいきました。あの映像はなんだか映画の一場面の様で、え?え?という印象でした。それが現実にライブ映像で起きていると言うことも認識するまで少し時間がかかったような記憶があります。
その日の授業は2時限目か3時限目くらいからでしたが、学校そのものが休校になりました。
ニューヨークだけでなく、車で1時間ちょっとのワシントンDCでも国防総省(ペンタゴン)にも飛行機が突入していて多発的だということで、その日は全米に飛行禁止がされて史上初の米国上空に飛行機が1機も飛んでいないという状況になりました。
ボルチモアにもインナーハーバーに世界貿易センタービルがあり、狙われる可能性もあるということで市内には外出禁止令が敷かれました。
私はマウントバーノンという地区で音楽院から2ブロック程度の所に住んでいたので、学校の様子も気になり昼前だったと思いますが学校に向かいました。
外出禁止令が出されているので、車も人も全くいません。走っているのはパトカーだけ。
必要で外出しても大丈夫かどうか不安でしたが、2ブロック先の学校に行ってみるとやはり閑散としていました。学生寮に挟まれたカフェテリア(学生食堂)に行ってみると、学生たちがテレビの周りに集まり鈴なりの様な状態。ニューヨークやペンタゴンの様子が映し出されていて、テレビを見ている学生の中には、WTCに従兄弟がいるとか、友人がいるとのことで泣いている人も数人いました。
その頃はアウローラギターカルテットというグループで演奏も始めていましたが、メンバーの友人でペンタゴンに勤めている人がおり、出勤してまずコーヒーを飲みに席を外したそうですが、その数分後にその人のオフィスがある辺りに突入されたので九死に一生を得たというエピソードもあります。
ブッシュ大統領はそのテロ事件から大体1ヶ月程度でアフガニスタンに米軍を送ったと記憶しています。
あっという間に戦争に突入していったのですが、アメリカ国内全てが報復せよという勢いで一杯になり、人種関係無しに一致団結して戦争へと猛突進していきました。
いつも通っている日本食レストランに行っていたときに、軍服を着た白人女性が入ってきて食事をしていましたが、一緒に話をしていると「翌週からアフガンに行く」という話で、周りにいた皆で健闘を祈って一緒に酒を飲んでいた記憶もあります。
ひょっとしたらパールハーバーの時もこんな感じだったのかなと想像もしてしまったこともあります。
戦争は良くないに決まっていますが、いざ、何かが起きて戦いになるときの雰囲気の変わり方、勢いの雰囲気というものを現実の世界で見せられました。
翌年に、幸運な事に意志を共にするメンバーが集まり、WTCに救助のためにビルに入っていった数百人の消防隊員のご遺族のためにチャリティコンサートをさせて頂いたこともありますが、事前打ち合わせの際には、自分も瓦礫がまだ山の状態の現場を見にいきました。
地下鉄数駅が閉鎖になったままで、いかに被害が大きかったのかも垣間見られました。
ここまで当時のことを細かく書くことはあまりしないのですが、20年という年月で同時多発テロの事をあまり知らない人も増えてくると思いますし、アフガニスタンのあの米軍撤退とも繋がっている事なので当時の事を振り返ってみました。
コメント
コメント一覧 (2)
この様な現実が起きない様テロの廃棄を皆で監視していきましょう!
kcsumi
が
しました
もう20年も経ったと思えない時の流れ。激動だったなと思います。鮮烈でしたよね。
コメントありがとうございます!
kcsumi
が
しました